奇跡のコース独学ノート

奇跡のコースでの気づきと赦しの実践をつづります

無垢なる顔をする自己概念B

思考の逆転には

 

自分と認識しているものを

自己概念Bというのですが

 

 

それは、無垢なる顔をしていると

いいます。

 

 

自己概念Aは

罪罪悪感恐れを持つことで

分離が起こった!事を維持できるようにした

 

でも、そこに

とどまる事は耐えられないので

 

自己概念Bという自分という存在を

投影によってつくった

 

 

罪罪悪感恐れの投影としての

 

自己概念Bである

自分は

 

やはり、罪罪悪感恐れを

直視したくないので

 

 

他人という自己概念Cにそれを投影する

 

 

そうやって、

無数に断片化した世界の投影ができた。

 

 

自己概念Bである自分は

 

無垢なる顔をする。

 

他人に罪を擦り付けることで

自分には罪がないけど、世界を存続できるという

都合の良い世界をつくった

 

 

これを、日常的な出来事で照らし合わせると

 

 

例えば

 

わたしが、足が痛いので、外出を控えて

可哀そうだ。

 

と自分の事を思う

 

 

そのとき、

 

わたしは、足の痛みや、自分に肉体に罪を擦り付けて

自分は、その被害者で

 

被害を被って可哀そうだ。

 

悲しい、つらい、足の調子がよくなってくれたら

わたしは、幸せになれるのに。

 

 

という思考回路で動いている。

 

 

でも、足が痛い状況で、それによって

被害を被っている可哀そうな自分であることで

 

 

自分には罪がないという自我の目的を果たして

教化している

 

さらにいうなら

そのようなことを作り出したのは

さかのぼれば全部

自分の選択で作ったこと。

 

 

それなのに

無垢なる顔をして、自分は被害者で

何も知らない。

世界がわたしを攻撃してくるのだ。

 

罪は、自分にはない。

罪は、病気や、わたしを苦しめる体だ

 

 

そう無意識で思う事で

 

 

この世界を維持している。

 

 

また対人関係であれば

 

 

Aさんが、最近、自分をほったらかしにしている

こちらから、連絡しないといけないのかなと思うけど

こちらも連絡する気になれない。

そこで、だんだんとAさんが自分をないがしろに

しているのではないか?

と思い始める。

 

そして、Aさんって実は冷たい人なんだよね。

Aさんには気を付けなければ

 

という考えになってくる。

 

 

これも、自分の中の罪悪感を抱えきれずに

Aさんの投影して、Aさんに罪がある事にして

自分は無垢なる顔をしようとしている

 

 

このときも、本当は

自分で自分に罪があると思っている

 

 

そして、体の不調もそう

 

結局は、自分が弱きものだと思う事で

快感を得ているのだ。

かわいそうな自分でいることで

免罪符のように、罪を免れていると思っているのだ。

 

 

ということは

 

どちらにせよ

潜在意識では、

 

 

自分に罪があると信じているということ。

 

 

それは、自己概念A(間違った心)が信じている事

 

 

ここまで戻れると

 

 

間違った心の自分に戻れたことになる。

 

 

罪を犯したと思いたい?

心の自分に問いかける

 

そうすると

そう、わたしは罪を犯したと

思っていたい

 

そう答える自分がいる

 

どうして、その罪を握っていたいの?

 

「わたしがいなくなってしまうから。」

 

その罪を握っているのは

苦しみだよね?

 

「わたしは苦しんでいたい。そうすれば

わたしが、維持されるから」

 

 

こうして、本当に

正気じゃない事を、信じてるっていう自我を

目の当たりにするのです。

 

ここまできて

もうどうにもできない。

 

でも自我を見ることができた。

 

 

これが自我

 

 

それをやめようと思う自分がいる
 
 
自分でやめようとすることは不可能
(自我が自我を裁いている状態)
 
 
 
苦しみを手放したくない
自我をそのままみる
 
 
 
自我の出来る事はないと知る
 
 
 
 
わたしは、もう正しい見方を選びたい
=わたしは自我を選ばない
そう望む
 
 
 
その事が決断の主体に戻った地点
 
 
 
 
正しい心から見たいと思う。
 
 
 
 
あとは何もしない

 

 

 

このプロセスで

一番難しいのが

 

 

自分から、好んで

苦しみや不快感、恐れ、罪を

握って手放したくない自分

 

 

でも、その自分に対して

手放させるのではなく

 

 

恐れ握ったままの状態を

ただみるというのが

レーニン

 

 

このとき、

自分で自分を苦しめていると

わかっているのに

それをやめられない自我をみて

 

正直ぞっとするし

その狂気ぶりに、耐えられないぐらいの

恐れを感じる。

 

 

そんな狂った自我を

なんとかしたいと思うと

自我と戦う

 

そんな狂った自我をみて

排除したい、消したいと思ったら

 

 

もっと自我は強化される。

 

 

自我はこういってる

 

だって、それを手放したら

わたしは、消えちゃうんだから

絶対に手放したくない

それを信じているのだから

 

だから、ここで

狂った自我に対して

 

裁かないし戦わないし

忌み嫌わない

 

 

 

これが自我

自我をみる

 

 

もっと恐れたい自我がいるので

もっと恐れていいよっていってあげる

 

 

そうすると

すっと、恐れがなくなって

正気にもどる気がする

 

 

「あれ?恐れが消えてしまった

自分は何をしていたのだろう?」

 

 

「わたしは、もう自我を選ばない

わたしは、正しい心からこれをみたい」

 

 

本当は、恐れが無かった事がわかる

もともと、平安だったことがわかる

 

罪を信じたかったけど

なかったことがわかる

 

 

 

ここまでくるのに

時間かかった~

でも、今、本当にあの

恐ろしい恐れがきえた。

 

 

 

 

赦しのステップ

不快な出来事や体の違和感や痛みを感じる
 
 
 
 
 
 
みればみるほど
 
恐れや不安がわいてくる
 
 
 
 
 
 
その恐れを、実在していると
 
信じたがっている自分がいないか確認する。
 
 
 
 
信じたがっている自分を見つけたら
 
それをやめようと思う自分がいる
 
 
自分でやめようとすることは不可能
(自我が自我を裁いている状態)
 
 
 
やめられない自我をそのままみる
 
 
 
自我の出来る事はないと知る
 
 
 
 
わたしは、もう正しい見方を選びたい
=わたしは自我を選ばない
そう望む
 
 
 
その事が決断の主体に戻った地点
 
 
 
 
正しい心から見たいと思う。
 
 
 
 
あとは何もしない

赦しの実践

動揺している事に気づいて

心の戻ろうとする

 

わたしは、この出来事で動揺してるんじゃない

 

動揺しているときは

まず、それを思い出せないぐらい

 

余裕がなくなって

体の痛みや、嫌な出来事に意識が向く。

 

 

そこから、おなかが痛くなるような

不快な感覚

不安を感じて

 

意識は

その動揺がつくる不快なもの

全てに向かっている

 

 

それに気づいている自分はいるけれど

完全にそれと一体化して

その強烈な引力に、またひっぱられていく。

 

これが自我の力動。

 

 

この状態が赦しのレッスンをするときなんだと

ちょっと思い出すけれども

 

 

全然できない。

 

 

こんな出来事を

放っておいていいはずがない。

どうにかしなければいけない。

 

このままだと、もっとひどい出来事が起こる。

 

例えば

死んでしまうのでは?

みんなから、相手にされなくなるのでは?

もっと、痛みがひどくなるのでは?

 

だから、とにかく

様子を観察しなければ、いけないから

 

もっと、そこに意識が向かう。

 

さらに、それを見ている

意識は、さらにそれをみて、恐怖を感じる。

 

その不安や恐怖を感じるのが

自己概念A(罪罪悪感恐れ)なのかもしれない。

 

 

という事は

何かが起こって、不快感を感じたとき

同時に感じる、あの恐ろしい不安や恐れは

自己概念Aに戻れているってことかもしれない。

 

 

とすると、

あと、もう一つ手前に戻ることができれば

赦しが成功するってこと。

 

あと一歩手前とは

 

「罪罪悪感恐れ」が実在すると

信じようと決めた自分を思い出すという事か。

 

 

明日はこうやって赦しをやってみよう。

 

不快な出来事や体の違和感や痛みを感じる

 

 

みればみるほど

恐れや不安がわいてくる

 

 

その恐れを、実在していると

信じたがっている自分がいないか確認する。

 

信じたがっている自分を見つけたら

その決断をした自分まで戻る

 

正しい心から見たいと思う。

 

 

これが明日のチャレンジ。

やってみよう。

 

 

自我の目的

思考の逆転のところを復習していて

気づいたこと

 

 

自我の目的は

 

自分は無垢なる被害者として

他人を加害者にしたてあげる

 

そして、他人に罪がある事にする。

 

 

そのように外側に投影して

被害者となって、罪をまぬがれられたと思っている。

 

 

例えば

最近わたしは

Aさんの事がどうして好きになれない

なぜかというと、

わたしの事を、重要視していないように

みえてしまうからだ。

 

だから、わたしは

Aさんっていい人そうにみえて、性格わるいんだよね。

 

という解釈をすることで、

自分をなっとくさせようとしている。

 

 

これが自己概念Bのわたしが

思っている事。

 

 

そうやって

Aさんが悪い人だから、わたしは

被害を被って嫌な気持ちになっている。

 

としている。

 

Aさんに罪はあるけど

わたしにはない。

 

そうすり替えて、なっとくさせようとしている。

 

 

でも、本当は

わたしは、Aさんの事で、モヤモヤしているのではない。

 

自己概念Aに戻った時

間違った心は

自分が罪を犯した!と信じた

そして罪悪感をいだき

処罰されると恐れを抱いた。

 

ただ、それが

恐ろしすぎて

 

自己概念Bである

自分をつくった。

 

その自分は、自分に罪があることに

耐えられなくて

外側に投げ出した。

 

それが、他者であり

それがAさん。

 

 

つまり、

Aさんの事は、なんの原因でもなく

 

心の自分が間違った心を

選択したこと

 

それは、自分には罪があるから

処罰されるから怖い

 

そう信じることを決めたことが

原因。

 

 

赦しというのは

 

そう信じ込んだ事が

全部、うそだったと、気づくこと。

 

そう考えると

 

わたしの、Aさんに対するモヤモヤは

全部、わたしが、罪をなすりつけるためにつくった他者として

投影しただけで

 

それを、もうわたしは

信じない。

 

そう思う事が大切。

 

信じたがっている自我の本当の目的は

 

 

この世界が実在しているのだという

証拠をしめすための、自作自演にストーリー

 

 

特別な憎悪の関係ともいえる

 

これは、

わたしが今、足が痛い事も同じ。

 

 

わたしは、足が痛い事によって

苦痛を感じ、不幸な気分を味わっている

 

でも本当は、それは

 

間違った心が、自分は罪を犯したから

処罰される。だから怖い

だからそこから逃げなければ

 

そう信じ込んで

その恐れから逃げ出すためにつくったのが

 

足の不調や痛み。

 

だから、その知覚は

さらに、自我を強化させ

 

この足の不調が悪い

これに、苦しめられるわたしはかわいそうな被害者

そう信じて、心の自分に戻れなくしている

トリック

 

そういう事を自我はして

 

ますます、世界に自己概念Bである

わたしは釘付けになり

ますます、深刻にそれを信じて

 

そんなものがあるからいけないのだ

そんなものがあるから、わたしは

自由になれないのだ

 

そうやって、この状態を憎悪しつつも

実在のものとしてみることを強化させている

 

 

でも、

本当は、それも全部

神からの分離は起こったと信じると

 

決めた心の自分が

自我の目的を果たしているだけ。

 

 

自我の目的

 

〇心の自分に戻らせないために、間違った心(自己概念A)を

とてつもなく、恐ろしいところにした。

(罪、罪悪感、恐れ)

 

〇あらゆる、動揺などの感情(喜びも苦痛も)をつかって

この世界が実在(リアル)していると信じ込ませる

 

 

自我の力動はこうなっているので

 

自分が、動揺したり、喜んだりしているとき

気づいていくこと

 

・人を咎めているとき

・起こった出来事(病気とか、他者との不愉快な出来事)に

動揺しているとき

・人と比べてさげすんだり、優越感を感じているとき

 

そういうときこそ

また、

 

わたしは、間違った心を選ぶと決意したんだな

選びなおしたいと

気づくことが大切。

 

尽きることのない恐れの原因

原因についてのコースと

思考の逆転を読んで

わかったこと。

 

 

わたしの中に小さな頃から

あった恐れは

 

 

全部、わたし個人の恐れではく

 

 

間違った心(自我)のものでした。

 

 

 

わたしは、小さな頃から

肉体にたいしての恐れがあって

 

 

特に病気に対して

3~4歳の頃から怖がっていました。

 

 

それは、大人になる今まで

一日も消えたことがない恐れとして

付きまとっています。

 

 

今もそうですが^^;

 

 

ちょっとした不調があると

不安になって、病院で検査をして

大丈夫と言われて一瞬ほっとする。

 

 

でも、また

別の体の部位のことが気になって

不安になる。

 

 

そのような事を

ずっとやってきているのです。

 

 

実際は、特に病気もなく健康に

生きてきているのにです。

 

 

こんなおかしなことを

どうして、わたしはやってしまうのだろう?

ずっと、ずっと

苦しみながら、その恐れが消えることが

ありませんでした。

 

 

奇跡のコースでは

 

 

そもそも、自我は

神からの分離を信じたとき

 

そのことを、思い出せなくするために

 

 

この世界を投影で誤創造しました。

 

 

投影で現れたものの一つが

わたしが、自分の肉体と思っているものです。

 

 

大元が

罪罪悪感恐れからきているのだから

 

肉体は、恐れを強化するために存在し

罪を犯したわたしたちは、

罰を受けるべき存在という

 

 

自我は信じているし

そうやって、自我は、この世界を

維持している、

 

 

だから、

そう簡単に、それをやめるはずなど

ないのです。

 

 

つまり

個のわたしが、肉体が病気になるのではないか?と

恐れるのをやめるはずがないのです。

 

 

奇跡のコースのワークブック5では

こういいます

 

私は自分が考えているような理由で

動揺しているのではない。

 

 

つまり

わたしは、自分の体が病気なるのでないか

という事で

 

動揺しているのではなく

 

本当は

神から分離した事を信じて

神を殺して自我の自分を作ったことにたいする

 

罪悪感で

いつか、処罰されるという事恐れているし

 

それが、リアルだって

思いたいから

 

肉体を使って、それを実在させようという

とてつもなく、巧妙な事を

やってのけているというのが、本当のところ。

 

 

だとしたら、

 

 

それは、自我(間違った心)が

つくった投影であり

 

リアルではないのだから

 

 

それを、本気で信じることはなく

 

正しい心から

 

もういちど、

 

肉体に対しておびえている

自分を俯瞰してみて

 

これは、実在していないよね。と

別の見方をすることが

 

赦しになるという事なんだ。

 

 

 

 

一瞥体験をしても、それは一瞬のこと。本当の悟りはまだまだ。

非二元の学びにであったのが2020年

そのあと、徹底的な

思考観察をしていったところで

一瞥体験があり

 

その後も、

真理の探求していました。

 

 

2020年に、出会って

本を買っていた

奇跡のコースに、2021年また、出会いました

 

 

読んでもわからない難解な本でしたが

教えてくれる先生から学ぶことにして

 

日々深めています。

 

 

一瞥体験をしたあと

数か月は、平安に包まれていました。

 

でも、そのあと

 

また、日常の中に

不安とか恐怖を沢山見出し始め

 

 

以前よりももっと

心の闇に触れるようになっていきました。

 

 

どうして、一瞥体験して

真理もわかったし

 

全てが絶対的に安心だとあのとき

わかったのに

 

 

わたしは、こんなに

不安や恐れにさいなまれてるのかな?

 

 

しかも、前より

その感覚が悪化している。。。

 

 

一瞥体験した人が

そのあと、虚無に陥るという話は

きいたことがあったけど

 

似たような感じだなと思う。

 

 

そんな時に、

 

進められたのが

 

奇跡のコースの関連本

「思考の逆転」と「原因についてのコース」

 

 

 

この本を読んで

 

 

すごい!!!

 

 

ここまで、綿密に

なぜ、この世界が出来たのかが

書いてある本はないと思って

 

 

ある種の感動を感じました。

 

 

そんなところから

もっと知りたい!と思うようになり

 

 

本格的に奇跡のコースを

学ぶ道にはいっていきました。

 

 

 

全部愛にみえる

一瞥体験後も

 

あの感覚に似てでも

また違う感覚を体験する

 

忘れないうちに記しておきます。

 

家をでて銀行にむかう途中

景色の一つ一つが美しく輝いていて

 

道路の地面や

枯葉

鉄の柵のようなもの

あらゆるものに対して

慈愛がわいてくる

 

そしてそれは

わたしの中に浮かぶ

 

感情や

考えと同列で

 

なんとも、そこにあることに対しての

感謝や

きゅんとくるような愛情

 

普段なら、見知らぬおじさんも

小さな子供や、かわいい猫をみたときみたいに

 

かわいらしく、きゅんと

いとおしさが出てくる。

 

そしてそのおじさんとか

そのた、道行く人の中にある

感情みたいなものを感じて

その営みに、愛おしさを感じて

きゅんとしたり

愛があふれて、涙がでてくる

 

道端におちている

空き缶にも、

 

そして、

わたしの中にわいてくる

そんな自分を感じての

恐れのようなエネルギーも

 

それを眺めて

かわいいいとおしい慈愛が

湧いてくる

 

ハートチャクラが開いたって

誰かがいってたけど

これかな。

 

どんなに、怖いと思っていたもの

悲惨だとおもっていたもの

そういう思いや

そういうところで苦しんでいる

あらゆる人の感情すら

いとおしく、きゅんとするような慈愛で

涙がでてきてる

 

そして

あ~わたしは、本当は

妹をすごく愛していていとおしくて

それを封印してきたんだな~という

慈愛が

 

爆発的にでてきて

また涙がでてくる

 

というのを感じながら

お買い物をして

レジの人にもシンパシーを感じ

愛があふれる

 

 

そんな感じになった

 

体験でした。

 

 

一瞥体験後は

ふと、全体に意識がむくと

とにかく

慈愛の感情がでてきて

その暖かさに涙がでてくる

 

わたしの中に浮かぶ思考が

恐れだろうが

なんだろうが

 

もう、そうやって

それを感じているその小さな

存在の愛おしさに愛を感じて

 

そうやって

怖い、不安だ

そう思いながらいても

大丈夫だよ。いいんだよ

なんでもできるよ

 

そう思いながら

眺めてる。

 

そんな考えが浮かんでいる

 

 

こういう感覚を

研ぎ澄ませて

引き続き気づきを記していきたいな